前代未聞のオリンピックが終わりました。
 緊急事態宣言が出されている中で、強行されたオリンピック。
 感染者は急増し、亡くなった人が、既に1万5千人を越え、医療のひっ迫が叫ばれている中でも、強行せねばならないオリンピックパラリンピックって、いったい何だろう?と、多くの人が考えたのだと思います。
 ワーッ新記録だ!すばらしい演技だ!すごい!・・・と、選手たちのパフォーマンスを無邪気に楽しんでいた過去のオリンピックパラリンピックとは違って、今回は、何のためにやるの?スポーツって誰のためにやるの?国のためにやるの?お金のためにやるの?・・・と、いろんな疑問を感じ考えました。

 思い出を2つ
 元々運動神経の鈍い私は、体育の時間も嫌いで、部活動にも入らず、スポーツとは縁なく過ごしてきましたから、スポーツをする人達には、尊敬の念と羨ましい思いとを抱いてきましたが、そんな貧弱なスポーツ感を覆す出来事に遭遇しました。
 30年ほど前、埼玉県にある自由の森学園を見学した時、体育の授業で「体育って、自分の身体を育てるという意味なんだよ、自分の身体の声を聴くんだよ」という先生の言葉に、感動したのを覚えています。
 そうか、体育の時間は、速く走るのや鉄棒がうまくなる、ボールをうまく投げられるようになることが目的ではなく、自分の身体を大事にすること、大事にする方法を知り実践できるようになることが目的なのだ!運動能力の高い人が輝くのが体育の時間ではなかったと、心から納得できたのでした。
 もう1つ
 半世紀以上前の前回東京オリンピックで、女子バレーや男子体操、マラソンなど、記憶に残っている競技はいくつもありますが、私にとって、あのオリンピックで、最も強烈に残っているのは、閉会式の「選手入場」でした。
 「選手入場!」とアナウンスされると、選手たちが、「ワオーーー」と叫びながらバラバラとなだれ込んできたのです。国も男女も関係なく、行進曲も無視して、走ったりスキップしたり、肩を組んだり、しゃべりながら、踊りながら行進する人たちもいました。本当に楽しそうで、テレビで見ている私たちにも、「がんばった!」「出し切った!」「結果がどうあれ、終わった!」という、その解放感や達成した喜びが伝わってきました。
 全選手がグランドの中央に集まってきた頃、主催国である日本選手団が、整然と並んで行進曲に合わせて入場してきました。
 圧倒的多数の他国選手たちの、自由な行動にも動じず、主催国の選手団として整然と行進した日本選手団も含め、世界は広いなあ、いろんな人たちがいて、価値観もいろいろ、喜びの表現もいろいろあるんだなあ!と感動したことを覚えています。

 スポーツが、速い人や強い人だけのものではなく、誰もが、自分の身体を使いこなして楽しめるものであったらいいなと思いますし、オリンピックパラリンピックが、一部の人や組織、金儲けのためではなく、スポーツを通じて、世界中の人々が、さまざまな文化や価値観、社会の習慣などに出会い、互いに尊重し合うことを確認するチャンスになればいいなあと願います。