先日、父の50年忌法要を済ませました。

 親の50年忌をする方は、少ないと思います。

 なにせ半世紀ですから、今のように長生きをする時代には稀なことでしょう。

 亡くなったのは、私が大学を卒業して就職1年目、弟たちは高校生でした。

 

 亡くなる前に入院治療の期間が3ヵ月ほどありましたし、泊まり込んで看病もしましたから、突然というわけではなかったのですが、やはりその喪失感は大きいものがありました。

 働いていましたから、一応自立していたとも言えるのですが、社会との防波堤だった父が崩れ去って、大海原に小さなボートで放り出されたような心細さで、呆然としていたことを思い出します。

 

 父の死によって、20歳そこそこで、「人間は死ぬ」「理不尽であろうと死ぬ時は死ぬ」という現実を我が身のうちにガツンと埋め込まれたわけで、このことは、50年の間にいろんな岐路に立った時や迷った時に、判断する柱になってきたんだなと、今振り返ってみて思います。

 55歳の父は、もっと生きるつもりだったでしょうし、やり残したことがいっぱいある無念の思いの中で死を受け入れなければならなかったのでしょう。

 そんな父を見送った私は、できれば静かに「わかりました」と、死を受け入れたい。そのためにも、毎日を大事にして生きていたいという思いは、いつも胸の中にあったように思います。

 

 子育ての8年間を除いて働き続けてきたのも、たまたま出会った障がいのある人への関わりを続けてきたことも、お一人お一人の人生の中で、ご自分の光る「その時」を見つけられるように支援したいという思いも、「生きている今」が「かけがえのない時」なのだという思いが、胸の内に沁みついているからだろうと思うのです。

 

 災害や交通事故、テロ、紛争・・・など、どこに理不尽な死が待っているかわからない今の世の中ですが、できれば「いろいろあったけど、まあ、自分なりにせいいっぱい生きてきた」と思いながら静かに死を迎えられたらいいなと思います。

 

 50年・・・、過ぎてみるとずいぶんと長い時間です。

 50年忌法要を終えて帰る車中で、そんなことを考えておりました。