前号からの続き、ドラマのお話です。
 大切な母親が亡くなったのは、自分が感染させた病気が原因だと知って「ボクがお母さんを殺したんだ!」「ボクのせいだ!」と泣くその男の子に対して、「君は人類の希望なんだよ」と、原因を突き止めた科学者が語り聞かせるのです。
 「君は感染していたけれど発病しなかった。亡くなったお母さんたちと君の体の違いを調べて、なぜ君が発病もせず生きているのかが分かれば、この病気の治療や予防ができる可能性がある。君はみんなの未来への希望なんだよ」と。

 私たちの社会は、多数派の論理や効率性にそって作られています。
 より多くの人が、より便利になることを求め、声の小さい人達や少数派の人たちの困難や不便を「非効率だと」切り捨てることで成立している面があります。
 ところが、このドラマのストーリーでは、
 病気や障がいも含め、一人一人の特性が、ひょっとしたら地域社会や人々を救うことになるやもしれず、「人類の希望」になる可能性を、すべての人が持っているというのです。
 最近は、様々な面で多様性が大事だ、「違い」を認め合うべきだと語られることが増えてきました。
 それは、一人一人がかけがいのない存在であるという人権思想によるところが強いのですが、このドラマでの感染症の話は、そうではなく、「人類という種が生き残っていくため」という切実な話で、障がいの有無も、男も女も、日本人も○○人も、同じように「人類の希望」になりうる可能性を持っているというお話です。

 私たち日本人は、「和」や「同じ」を大事にする傾向があります。
 「迷惑をかけてはいけない」「皆と一緒に・・」を教育の大きな柱にしてきたことで、安全で効率の良い社会を作り上げてきました。
 外国人から「日本は安全だ!」「新幹線は速くて正確だ!」と驚嘆されるところは、良い面として評価されているのでしょうが、「他と違う」ことをあまりに排除しすぎると、「和」の中に入れない人たちの人生を理不尽に奪い、安全と思っていた社会を危険に陥れる可能性もあるのだろうと思います。
 1人1人の違い=多様性が、この地球上で「人類という種」を絶滅させず永続させてきたということを、忘れてはいけないのだと肝に銘じて行動したいと改めて思いました。

 ・・・と書いたところで、川崎でのスクールバスを待つ子どもたちを狙った殺傷事件、都内で元事務次官による長男殺人事件という悲惨な事件が起こりました。

 テレビや新聞では「どうやって子どもたちの命を守るのか?」「外国では親の送迎が必須になっている」という話も出ていましたし「引きこもり」というキーワードも喧伝されています。

 詳細はわかりませんが、子どもたちを殺傷した容疑者も、父親に殺された息子も、職場や地域、家族の中で自身の存在を受け入れられず、人生の大半を、家族からも社会からも孤立して生きてきた人のようです。
 非効率なことや少数の人たちの小さな声 = 多様性を、面倒だと排除してきた結果と思えてなりません。